教養のススメ
ここ数日、ウォーキングをしています。
自宅を建て替える為に3月下中から、東区の天王町に仮住まいをしています。
この頃は歳のせいか朝早くに目が明く様になったが、これまでは外も暗かったので布団の中に潜り込むか
本を読んでいたが、最近は日も昇って気持ちが良さそうなので5時半頃から歩き始めました。
準備運動をして安間川沿いの堤防を北に向かって歩き始め、笠井街道まで行きまた戻ってくる、凡そ40分程の
ウォーキングである。途中、ウォーキングや犬の散歩など行き交う人に「おはようございます」と声を掛けながらの
ウォーキングです。気持ちよく一日を過ごしたいから、こちらから声を掛けます。たまに返事もしない人も居ます
が、気にしません。そんなことを気にすると折角の気持ち良いウォーキングが台無しになってしまいますから。
川には水鳥(?)が来たり鯉(たぶん)も泳いでいます。
堤防の草を刈ったり、水辺をもっときれいにしたらいいのになぁ等と考えながら歩いていると前夜読んでいた本を
思い出しました。「池上彰の教養のススメ」です。
その本の"教養がない「街」には、人がこない"の節に、筑波学園都市のことが書いてありました。
もともとは、東京都文京区にあった東京教育大学を現在の茨城県つくば市の広大な土地に遷し、企業の研究所などを
誘致、広々とした道路が碁盤の目のように交差する、徹底的にクリーンで計画的な街作りを国を挙げて行いました。
それが筑波学園都市です。80年代初期のオープン当初からこの街では自殺が急増しているという報道がありまし
た。あまりに広々として、あまりに整然として、人の気配がまったくない。下町も路地裏もない。非常に孤独な場所
だったのです。つまり街の設計に、人間はどんな場所を好きになるのか、どんなところで暮らすと気持ちいいのか、
人間はどんな空間に集まりたがるのか、という、街を実際に利用する人間の気持ちへの洞察が欠けていたのでした。
人間の感情と本性を無視した、机上の合理主義で作った街は、結局のところ人間が暮らせる街にならない。つまり、
大きな意味での合理性を欠いた街になってしまうのである。
目先の合理主義だけでできた街の計画にないものは、「教養」である。人間は合理主義だけで動く機械ではありませ
ん。何を愛し、何を憎み、何を好いて、何に興味があるのか。人間に対する洞察力すなわち教養がなければ、魅力的
な街を計画的に作ることはできないのです。と書いてありました。
浜松はものづくりの街だから、無駄のない効率的で合理的なものを求める気風があるのかもしれないが、街づくりに
は不向きなようである。
浜松市は、川を排水路としか考えていない様な気もする。
例えば、中心街を流れる新川を見たことがるだろうか。川には蓋がされ、頭上を電車が通る。下水路である。
韓国のソウル市街を流れる「清渓川」は、且つて異臭を放った川であったが、今では観光スポットとなり観光客や市
民が憩う場所なっている。世界の観光都市は、ものづくりの街ではない。
ウォーターフロント、水辺を活かした潤いのある街が殆どである。
製造業は、80年代から安い労働力を求めて海外に進出し、国内の産業構造は大きく変わってきているのに、未だに
ものづくりに拘っている。何を造るのだろうか。
そんな且つてのスズキやヤマハやホンダなど二輪や楽器産業が大きく地域を潤した高度成長期の再来を夢見ても再び
叶うことはないであろう。
人が来る「街」にするには、教養が求められると云うことですかね。