先日、私が所属するロータリークラブで、袴田事件の元死刑囚袴田巌さんのお姉さんの袴田秀子さんが卓話をしてくれました。
袴田事件とは、1966年6月30日未明、清水市で味噌会社専務一家4人が殺され放火された事件で、
当時味噌会社の従業員だった袴田巌さんが逮捕され、拷問を伴う長時間の取り調べを受け、「自白」を強要されました。
袴田さんは、一貫して無実を主張していましたが、1968年静岡地裁で死刑判決を受け、1980年には最高裁で死刑が確定されました。
その後再審を求め続け、遂に2014年3月27日、静岡地裁(村山浩昭裁判長)は再審開始を決定しました。
その内容は、「証拠は捏造」「これ以上の拘置は正義に反する」とする画期的なものでした。(映画『袴田巌』パンフレットより)
袴田秀子さんの話を聞きながら、巌さんの壮絶な人生を想わずにはいられませんでした。
私も嘗ては、袴田事件なるものに関心もなく、ただ「元プロボクサーならやりかねないな」くらいに思っていました。
しかし、再審が始まり検察側の証拠品に関する信憑性や新たな証拠が出されたりするにつけ、
何だかおかしんじゃないかなと思う様になりました。
私には、何でこういうことが起こったのかと云う疑問があるのです。
警察、検察側に於いても「証拠の捏造」若しくは「証拠が不確か」「もっと詳しく正確に調査するべきだ」と云うような
考えや意見が出なかったのか。
裁判官も同様です。
常識的に考えれば、おかしいなとか何故だろうとか辻褄が合わないな等と考えそうなものなのに。
先輩がやったことには何も言えなかったのか?
検察が提出したものが全て正しいと思い込んでいたのか?
『失敗の本質』(野中郁次郎他著)に堤されている日本人のメンタリティによるものなのか。
だとすれば、検察側の責任者や裁判官は、組織の上に立つ者としてまた人を裁く立場の者としては失格である。
リーダーとしての役割を果たせなければ、組織や多くの者に災いをもたらすことになる。
検察官としての判断、裁判官としての判決に臨むに当っては、常に「虚心坦懐」で臨まねば、裁かれる側が不幸である。
また、こうした所謂ムラ社会的なことや世間知らずな判決が為されない様に、裁判員制度が出来たのであろう。
こうした冤罪を防ぐには、裁判はプロに任せようなどと云わない様にして、一般市民としての常識を裁判の場に
披露した方が良いと考えます。